第三の居場所

子どもは、どうしようもなくて不登校になってしまったのです。しかし、不登校の原因は何か?と聞かれても、言語化できないのです。自分の気持ちがはっきりしていないのです。自分自身の中で起こっている葛藤やモヤモヤ、喪失感、疎外感、消えてしまいたい、いじめにあった言葉や行為、などが、頭の中で渦巻いているのです。さらに、「これを言ったら、たぶん次はこうなる、その次はこうなるかもしれない」と先の先の先の先ぐらいまで考え込んでしまっているのです。

言語化できないので、親御さんは納得がいきません。または、表面的な言葉だけを受けて、「じゃ、こうすればいいじゃないか」とか、「先生に言ってやる!」とか、などと表面的な対応をしてしまうのです。子どもからすれば、そんなことはもうわかっているし、先生なんかに言ったら、さらにいじめが陰湿になることも分かりきっているのです。

つまり、言語化できない自分の気持ちをわかってくれない親には、もう何も言いたくありません。さらに、両親の仲が悪かったり、シングルマザーやパパの場合には、話さえも聞いてくれない場合もあります。そうすると、「火の海」のような学校にも行けないし、家も安心して過ごすことができなくなってしまうのです。そこで、学校でも家でもない第三の居場所としてのフリースクールがあるのです。

第三の居場所としてのフリースクールの基本は、まず安心して過ごす空間を提供します。安心してゆっくりと、あるがままを受け入れてくれる大人がいます。最初から全部を話す必要はありません。安心して落ち着いて、ゆっくりと時間をかけて話せる大人が必要なのです。自分のことを話せるようになるまで、数週間から数年かかります。そのくらいの時間をかけて、ゆっくりと学校という「火の海」で受けたやけどを癒すのです。やけどが治るまでは、勉強はできません。勉強をしたくても、できないのです。

その間は、ゆっくりと自由な時間を過ごします。ゲームをしたり、小説を読んだり、インターネットをしたり、寝ているだけもOKです。同じような不登校になった仲間と話すこともいいです。ボランティアの方と一緒に、外で遊んでもいいし、農作業をしてもいい。秘密基地を作っていいし、プラモデルをつくってもいい。毛糸でマフラーを編んだり、ミシンで洋服を作ってもいい。絵を描いたり、習字をしたりもいい。囲碁や将棋をずっとやっていてもいい。自分が気に入ったことを、飽きるまでやったらいいのです。

その自由な時間で過ごすことで、自分のやりたいこと、なりたい自分が少しでも見つかったら、トコトン調べて、突き詰めていけばいいのです。例えば、魚のことに興味があれば、魚についてトコトン調べればいいのです。魚についてトコトン調べていったのが「さかなくん」です。将棋について突き詰めた子どもは、「藤井翔太」さんになりました。自分の好きなことが見つかりさえすれば、後は、自分で調べて、研究していくのです。その研究の中身は何でもいい。

私の尊敬する人に、東京都立大学の社会学者の宮台真司さんがいます。ある時、彼の研究は「サブカルチャー」というテーマでフィールドワークをしていました。時代の変化とともに、オタクたちは何を考え、どんな行動をしたのか、を徹底的に調査しました。社会学会のお偉方は「こんなテーマは研究に当たらない」と批判しましたが、彼の研究は如実に社会の在り方を世の中に示したのです。社会学は本当に広い範囲の知識と理解が必要です。憲法、法律、経済状況、政治、歴史などを中心に幅広く、そして深い知識が必要なのです。つまり、何かの興味があるテーマを見つければ、その背景にあるすべてのことを理解しなければならないのです。

不登校になった子どもは、現在の社会の中で、非常に狭い範囲のことしかしりえません。学校と家庭での範囲だけなのです。その学校も家庭も安心して過ごせないので、ゲームの世界を居場所とするしかないのです。これからの社会は誰にも予測不可能なのにもかかわらず、「学校に行かないと勉強ができなくなる」、「将来、会社に勤めて仕事をしないと生活できなくなるぞ」などど言ってしまいます。

将来がどうなるかわからないこそ、選択肢を広げてあげること。そして私たちは、子ども自身でその選択をした、という内発的な感情を受け入れてあげることが重要なことなのです。松代校では選択肢を広げてあげるために、学習支援も含め、最新テックや絵画、料理、野菜づくりなどいろいろなプログラムを通じて体験します。そして、社会学や法律を含めた現代社会の問題について話し合いながら、荒野となった社会を生き抜くための「人間力」を高めるワークショップをおこなっています。