[この記事は、フリースクール未来・松代校 校長の島田稔が書きました]
長野で初めて上映する「ノルマル17歳」をご紹介します。
上映日時:2024年9月1日(日) 13:30より上映(受付12:45より)
上映場所:フリースクール未来・川中島校(本校)川中島駅前です。
料金:18歳以下無料/大人1,000円
特典:北 宗羽介 監督のトークショーが上映後にあります
予約・お問い合わせ:
見て欲しい人:発達障害のある人とその家族、小中高のお子様をお持ちのご家族、学校・教育関係者、教育学・心理学専攻の大学生
「普通」。 きらい。 わかんない。
副題にあるように、ADHD(Attention-Deficit Hyperactivity Disorder:注意欠如・多動症)は、発達障害の一つである。発達障害には、ASD(自閉スペクトラム症)、SLD(限局性学習障害)、DCD(発達性運動機能障害)などがあり、いくつかの障害が重なっている場合も多い。医学的に「神経発達症」と呼ばれる場合もある。
ADHDは幼少期から傾向があるが、発達段階において「普通と違う子」のように見られてしまう場合がある。そして、小学3年生ごろから「困りごと」が目立ち始め、中高生以上になってからADHDと診断される場合が多い。教室でじっとしていられない、忘れ物が多い、、部屋が散らかっている、興味があるものに飛びついてすぐ行動してしまう、学校においては遅刻や友達との約束に遅れてしまう、などの日常生活に支障がでてくる。その一方で、アイディアをたくさん出したり、人とのコミュニケーションが得意な人もいる。
映画に描かれている2人の女子高生の「生きづらさ」は、現実的に起こっていることであり、家族も学校でも居場所がないことである。
監督である北 宗羽介さんが、青春映画を作りたいと考え、企画・脚本募集したところ、脚本家の神田 凜さんの応募作品が採用されたところから始まっている。その後、北監督と神田さんを中心に企画・脚本が進み、本作品「ノルマル17歳」が完成した。
神田さんは高校時代にADHDがある身近な人がいて、さまざまな生きづらさを抱えており、なんとか理解しようと書籍などを購入し、友人などを共有したがなかなか実践は難しかった。そのような体験をベースに北監督とともに脚本を作り上げていった。
北監督自身もうつ病がある時期があり、映画という芸術表現においては、自分の経験を大切にしながら企画や脚本に生かしていった。
トレーラー(予告編)にも描かれているが、ゴミ屋敷のような部屋の散らかり具合や怒りとして人にあたる朱里(じゅり)もいれば、逆に言葉に出さないが心に秘めてしまう絃(いと)、などADHDの中にも多くのパターンとレベルが存在している。
特に10代の児童生徒にとっての世界は、家庭と学校と限られている場合が多い。その家庭と学校の両方において、発達障害がある児童生徒は普通ではないため、いじめの対象になったり、無視されたりする。本人は小さな頃から努力しているのにも関わらずできないことに、劣等感を抱くこともある。結果的に他人との接触を怖がり、不登校やひきこもりの状態に陥りやすく、「居場所がない」と感じてしまう。
親御さんは、子どもにとって「普通になって欲しい」、「幸せになってほしい」と思い、叱責やアドバイスを言うのだが、これは親御さんの普通や幸せの押し付けになってしまう場合がある。親御さんも理解しようと思うのだが、どうやってこの子と付き合っていけばよいかがわからないのである。これは、思春期の子どもをもつすべての親に関係している。朝起きれない、夜遅くまで起きている、ゲームばかりしている、考えていることがわからない、といったことは多くの親御さんは経験しているだろう。
この映画の最大の特徴は、「リアリティ」である。現実に起こっていることである。「普通」とは何か、どんなことが苦手なのか、どんなことに悩み困っているのか、どんなことに希望が持てるのか、を考えさせられる映画である。
そして、発達障害の状態にある子どもたちにとって、「世界は家庭と学校だけはない」ということを知ってほしい。
筑波大学名誉教授で小児科医の宮本信也先生とその大学院生の調査結果によると、高校卒業後のASD児の状態安定に関係していた要素を見出した。それは、中学生時代に「親以外に黙って聞いてくれる人がいた」、ということである。ポイントは、「黙って聞いてくれる大人がいる」ということである。これは、当事者にとって寄り添ってもらえているし、社会に受け入れられていると感じさせてくれるのである。
発達障害のある状態の子ども、学校、家庭、そして友だちやお店のおじさんなどが映画に登場する。それぞれの思いや関係、言葉、繊細な表情に注目してみてもらえると、たくさんの学びがあるのではないだろうか。